【愛着障害】理解されることを諦めた私の生きかた

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こんにちは。

私は理解されることを諦めていますし、理解を求めることもやめました。例えば家族のこと。心を開くことが難しいこと。

特に家族のことは、日常会話で話題になることが多いです。でも、私にとって家族との思い出は、あまりいいものではありません。

そこで「理解されることを諦めた」「理解を求めることもやめた」という理由や現実をお教えします。

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理解されることを諦めた理由や現実

私は元々「ひとりふたりなら理解してくれるかもしれない」と思っていました。しかし、現実は厳しいです。

「なぜ家族と仲が悪いの?」「家族となにかあったの?」など、いろいろと聞かれ、話した結果、離れていく人が多かったです。

離れていかない人ももちろん少しはいましたが、私が「ACであること」を説明しても、理解はされませんでした。

「まだ子供なの?」など、違う意味でとらえられることも多く、私は途端に居心地が悪く感じてしまいました。

そして「私から離れる」という結末になってしまい、今は友人と呼べる人は誰もいません。唯一の理解者は、心理士さんと担当医さんです。

 

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理解を求めることもやめた理由や現実

上記の理由から、理解を求めることもやめました。「理解されないほうが当然だ」という思考に変わりましたね。

心理士さんや担当医さんは理解をしてくれますが、それ以外の人となると、残りは「自分のみ」です。

私は「自分自身こそが、1番の理解者であろう」という気持ちになっていき、自分自身を理解する努力をはじめました。

結果、私は「ひとり」となり「誰にも理解されない」ということになってしまいましたが、あまり寂しいとは感じていません。

元々が「ひとりのほうが楽」という性格だったからかもしれませんけど、人に期待しないことを覚え、少しだけ気持ちに余裕が生まれました

 

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最後に

私はこの選択を、後悔していません。

この先、何年後か何十年後かに、理解をしてくれる人があらわれるかもしれませんが、期待はしないでしょう

今はまだ「人を心から信じる」ということができません。なので「誰かに期待をする未来が見えない」んですよね。

ただ、今は今でひとりの時間を大切にし、向き合っていこうと思っています。現実が変わる可能性は低いと考えているので。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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